座談会
東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後・1)
限界研編『東日本大震災後文学論』の刊行を記念して行われた座談会の後半です。今回は2部構成でお送りします。12月に刊行された笠井潔『テロルとゴジラ』、藤田直哉『シン・ゴジラ論』(ともに作品社)の話も交えて、震災とフィクションについて、また世代間の感覚の違いに照射して議論をしています。
- 作者: 限界研,飯田一史,杉田俊介,藤井義允,藤田直哉,海老原豊,蔓葉信博,冨塚亮平,西貝怜,宮本道人,渡邉大輔
- 出版社/メーカー: 南雲堂
- 発売日: 2017/03/10
- メディア: 単行本
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杉田 さて、ここから後半になります。
笠井さんの『テロルとゴジラ』と藤田直哉さんの『シン・ゴジラ論』が二〇一六年一二月に、作品社からほぼ同時に刊行されました。二〇一六年はサブカルチャーの領域において、画期的な年になったと思います。『シン・ゴジラ』『君の名は。』『この世界の片隅に』という非常に大きな作品が次々と世に出た。『シン・ゴジラ』のキャッチコピー「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」に象徴されるように、それらの作品は、震災後の政治や社会の問題とエンターテイメント性を高次元で融合させ、また現実とフィクションが相互に反転し合う(SNS等のネットの力によって政治性や社会問題が話題や議論になり、作品の商品や芸術としての価値をさらに高めていく)ような構造をあらかじめ組み込んでいる。
さらに実際に、震災後の二〇一〇年代のこの国は、現実と虚構、政治と芸術などが奇妙な形でモザイク化していて、リオオンリンピック・パラリンピックのあとの安部マリオ、妄想的なヘイトスピーチ、日本会議的な歴史修正主義(神武天皇は存在した、等)などが象徴するように、すでに現実と虚構の関係がどこか妄想や神話のゾーンとも相互浸透を起こしはじめているかのようです(かつてヒトラーとリーフェンシュタールとチャップリンの間に「映画を用いたドイツ国民の神話化」をめぐる戦いがあったことを思い出します)。
僕はそういう状況の中で「ニュータイプの国策映画」「マジョリティの不安を慰撫し、歴史修正的な欲望を満たすためのポリティカルフィクション」等が増えてきつつあるのではないか、と敢えて言ってみたい気持ちもしています。そしてそれはもちろん、この国の戦後史そのものと――日米の従属構造のもと、正義と平和に関する根本的な欺瞞を抱えこみ、「虚構のなかでもう一つの虚構を作る」ような「ごっこの世界」(江藤淳)の中でサブカルチャーを繁茂させてきた――も関わっているはずです。では、そんな状況の中で、作品を批評するとは、どういうことなのか。
笠井さんと藤田さんの二冊のゴジラ論は、政治と芸術、現実とフィクションがモザイク化していく状況に対して非常に自覚的でありつつ、最近よくある「あくまでもフィクションは政治的イデオロギーとは無縁に、中立的に受け止められるべきだ」という形で現政権的なものに加担していくメタ政治的な芸術論とは別の形で、非常に刺激的な政治的+芸術的なサブカルチャー批評を実践しているものである、と僕には思われます。つまり、二〇一六年の『シン・ゴジラ』以降の時代に、そもそも批評はいかなるものでありうるか、どうあらねばならないか、を根本的に問わしめるようなポリティカル・フィクション批評になっている。
まず、笠井さんは、藤田さんの『シン・ゴジラ論』を読んでいかがでしたか。