限界研blog

限界研の活動や記事を掲載します。

座談会 東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後2)

座談会 
東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後・2)

参加者:笠井潔×杉田俊介×冨塚亮平×藤井義允×藤田直哉

東日本大震災後文学論

東日本大震災後文学論

* 『シン・ゴジラ論』Bパートをめぐって――そして『ガルム・ウォーズ』

杉田 藤田さんはまとめサイト的な『シン・ゴジラ』に対して、批評の側からまとめサイト的に振る舞っている面があると思うけど、もちろんそれだけだとは全然思わないんですよね。やっぱり藤田さんがコミットする価値判断は、最後のゴジラのしっぽの話だと思う。ゴジラのしっぽは死者たちの群れであり、それは東北の震災の犠牲者や、原発事故の被害者たちの怨念を象徴するものであると。そうしたゴジラが象徴的に、東北から東京へとやって来て、不公平を是正しようとするわけです。お前ら東京人も、冷温停止したゴジラと共にずっと生きろと宣告するかのように。「東京に原発を!」じゃないけれども。
あの判断が藤田さんに固有の、一番強い解釈だと僕は思った。それは「政治か芸術か」「倫理か美か」というアングルとしての対立を打ち砕くような、むしろそれらが反転しあってある種のメタ快楽を、メタ倫理を生み出していく……そしてゴジラが一種の宗教的な対象になっていく。それは現代的な美学論+政治論の一歩、さらに先を目指し、切り拓くような、藤田直哉という批評家の新しい理論の提示であり、だからこそ、僕は藤田さんの今回の『シン・ゴジラ論』を高く評価します。
しかしその上で言いたいのは、藤田さんの論が今回、ゴジラをある種の消費可能な宗教的対象として捉えてしまうのは、どうなんだろうか。天皇や国体の話が出てくるけれども、ある種の靖国神社みたいな話になってしまっていないか。つまりゴジラの存在を、ある種の飼いならされた死者たちの次元に落としこんでいないか。実際に、現実のネトウヨもオタクも安倍晋三も『シン・ゴジラ』を喜々として享楽していますよね。彼らの精神は全くこの映画によって揺るがされない。内省もしない。するとこの映画は、東北の死者や犠牲者の怨念によって東京を脅かすどころか、歴史修正者たちに都合のいい、靖国的な、死者たちの国家利用の、鎮魂(たましずめ)の媒体として機能してしまってはいませんか。

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座談会 東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後1)

座談会 
東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後・1)

参加者:笠井潔×杉田俊介×冨塚亮平×藤井義允×藤田直哉

限界研編『東日本大震災後文学論』の刊行を記念して行われた座談会の後半です。今回は2部構成でお送りします。12月に刊行された笠井潔『テロルとゴジラ』、藤田直哉シン・ゴジラ論』(ともに作品社)の話も交えて、震災とフィクションについて、また世代間の感覚の違いに照射して議論をしています。

東日本大震災後文学論

東日本大震災後文学論

* 笠井潔『テロルとゴジラ』vs藤田直哉シン・ゴジラ論』

杉田 さて、ここから後半になります。
笠井さんの『テロルとゴジラ』と藤田直哉さんの『シン・ゴジラ論』が二〇一六年一二月に、作品社からほぼ同時に刊行されました。二〇一六年はサブカルチャーの領域において、画期的な年になったと思います。『シン・ゴジラ』『君の名は。』『この世界の片隅に』という非常に大きな作品が次々と世に出た。『シン・ゴジラ』のキャッチコピー「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」に象徴されるように、それらの作品は、震災後の政治や社会の問題とエンターテイメント性を高次元で融合させ、また現実とフィクションが相互に反転し合う(SNS等のネットの力によって政治性や社会問題が話題や議論になり、作品の商品や芸術としての価値をさらに高めていく)ような構造をあらかじめ組み込んでいる。
さらに実際に、震災後の二〇一〇年代のこの国は、現実と虚構、政治と芸術などが奇妙な形でモザイク化していて、リオオンリンピック・パラリンピックのあとの安部マリオ、妄想的なヘイトスピーチ日本会議的な歴史修正主義神武天皇は存在した、等)などが象徴するように、すでに現実と虚構の関係がどこか妄想や神話のゾーンとも相互浸透を起こしはじめているかのようです(かつてヒトラーリーフェンシュタールチャップリンの間に「映画を用いたドイツ国民の神話化」をめぐる戦いがあったことを思い出します)。
僕はそういう状況の中で「ニュータイプの国策映画」「マジョリティの不安を慰撫し、歴史修正的な欲望を満たすためのポリティカルフィクション」等が増えてきつつあるのではないか、と敢えて言ってみたい気持ちもしています。そしてそれはもちろん、この国の戦後史そのものと――日米の従属構造のもと、正義と平和に関する根本的な欺瞞を抱えこみ、「虚構のなかでもう一つの虚構を作る」ような「ごっこの世界」(江藤淳)の中でサブカルチャーを繁茂させてきた――も関わっているはずです。では、そんな状況の中で、作品を批評するとは、どういうことなのか。
笠井さんと藤田さんの二冊のゴジラ論は、政治と芸術、現実とフィクションがモザイク化していく状況に対して非常に自覚的でありつつ、最近よくある「あくまでもフィクションは政治的イデオロギーとは無縁に、中立的に受け止められるべきだ」という形で現政権的なものに加担していくメタ政治的な芸術論とは別の形で、非常に刺激的な政治的+芸術的なサブカルチャー批評を実践しているものである、と僕には思われます。つまり、二〇一六年の『シン・ゴジラ』以降の時代に、そもそも批評はいかなるものでありうるか、どうあらねばならないか、を根本的に問わしめるようなポリティカル・フィクション批評になっている。
まず、笠井さんは、藤田さんの『シン・ゴジラ論』を読んでいかがでしたか。

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座談会 東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(前)

座談会 
東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(前)

参加者:笠井潔×杉田俊介×冨塚亮平×藤井義允×藤田直哉


3月10日(木)に限界研編『東日本大震災後文学論』が発売されました。震災とフィクションについて東日本大震災から6年経った今、再び考え直すような論集になっています。
その刊行を記念して新メンバーを加えた限界研会員で座談会を行いました。6万字を超える大ボリュームの議論を前後半に分けて掲載します。3月11日の今回は座談会メンバーの『東日本大震災後文学論』それぞれの論考の話を中心にお送りいたします。

* 限界研『東日本大震災後文学論』と二〇一六年のサブカルチャー

杉田 さて、限界小説研究会(以下「限界研」)の次の論集は『東日本大震災後文学論』になります。今日の場は、その宣伝を兼ねた座談会ということで、限界研の創始者である笠井潔さんにも参加して頂いています。まず、藤田さんから、そもそも限界研とはどんな組織なのか。そしてなぜ次のテーマが震災後文学になったのか。その辺の説明を、簡単にお願いします。

藤田 限界研はもともと、鶴見俊輔の『限界芸術論』から名前が取られています。大衆文化の変化に注目しながら、かつ、それが政治的なものにいかに関わっているかを分析する。そういう鶴見俊輔的なスタンスを受け継いだ会である、と僕は理解しています。サブカルチャー研究が中心の限界研と、もう一つ、震災後の大衆運動(反原連やしばき隊、SEALDsなど)についての研究会があって、笠井さんや僕はそちらにも参加しています。それらの二つを通して、文化現象と政治的社会的運動が分かちもつ大衆的無意識のゆくえを探ってきました。
今回、震災後文学論をテーマにしたのは、純文学の領域でも震災による様々な変化が見られたということが最初の理由です。僕自身が二〇一五年に「文學界」の新人小説月評を一年間担当して、大きな変化を感じました。フリーター・ニート格差社会を主題としていたゼロ年代の純文学とは明らかに変化があると思い、それが時代精神と連動しているように感じました。僕が昨年編集した『地域アート』もいわば「震災後」のアートの本だし、今回僕が一冊の評論を書いた『シン・ゴジラ』も明らかに「震災後」の作品であると考えています。僕の視点だけから言えば、震災後に文化や社会で起こった変化を総体的に捉えるための総合的な布置の中に、純文学編である『東日本大震災後文学論』が位置づけられます。
東日本大震災後の文学作品の変化を――ただし僕の考える文学はたとえばゲームも入っていて、狭義の純文学に限りませんが――調べることで、今の社会の変化が見えてきたり、文学者たちが何を考えてきたかを広く読者とシェアできれば、それがフィードバックして、何か良いことに繋がるかもしれないし、それが批評の役割の一つだろう、と考えています。まずはそんなところで。

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限界研とは

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私たち限界研(旧:限界小説研究会)は、2000年代半ばに結成された文学、映画、サブカルチャーといった文化事象を研究している若手批評家集団です。

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限界研の沿革


本研究会は、当初、本格ミステリ作家・批評家の笠井潔を顧問格とし、数人の若手ライターや文芸評論家の卵たちによって、「先端的なサブカルチャーやインターネット文化に大きな影響を受け、既存のジャンル規則を更新する新しい文学的想像力を備えた小説作品」について考えることを目的に、2000年代半ばに結成されました。

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