座談会
東日本大震災と震災後のポリティカル・フィクション(後・2)
- 作者: 限界研,飯田一史,杉田俊介,藤井義允,藤田直哉,海老原豊,蔓葉信博,冨塚亮平,西貝怜,宮本道人,渡邉大輔
- 出版社/メーカー: 南雲堂
- 発売日: 2017/03/10
- メディア: 単行本
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* 『シン・ゴジラ論』Bパートをめぐって――そして『ガルム・ウォーズ』
杉田 藤田さんはまとめサイト的な『シン・ゴジラ』に対して、批評の側からまとめサイト的に振る舞っている面があると思うけど、もちろんそれだけだとは全然思わないんですよね。やっぱり藤田さんがコミットする価値判断は、最後のゴジラのしっぽの話だと思う。ゴジラのしっぽは死者たちの群れであり、それは東北の震災の犠牲者や、原発事故の被害者たちの怨念を象徴するものであると。そうしたゴジラが象徴的に、東北から東京へとやって来て、不公平を是正しようとするわけです。お前ら東京人も、冷温停止したゴジラと共にずっと生きろと宣告するかのように。「東京に原発を!」じゃないけれども。
あの判断が藤田さんに固有の、一番強い解釈だと僕は思った。それは「政治か芸術か」「倫理か美か」というアングルとしての対立を打ち砕くような、むしろそれらが反転しあってある種のメタ快楽を、メタ倫理を生み出していく……そしてゴジラが一種の宗教的な対象になっていく。それは現代的な美学論+政治論の一歩、さらに先を目指し、切り拓くような、藤田直哉という批評家の新しい理論の提示であり、だからこそ、僕は藤田さんの今回の『シン・ゴジラ論』を高く評価します。
しかしその上で言いたいのは、藤田さんの論が今回、ゴジラをある種の消費可能な宗教的対象として捉えてしまうのは、どうなんだろうか。天皇や国体の話が出てくるけれども、ある種の靖国神社みたいな話になってしまっていないか。つまりゴジラの存在を、ある種の飼いならされた死者たちの次元に落としこんでいないか。実際に、現実のネトウヨもオタクも安倍晋三も『シン・ゴジラ』を喜々として享楽していますよね。彼らの精神は全くこの映画によって揺るがされない。内省もしない。するとこの映画は、東北の死者や犠牲者の怨念によって東京を脅かすどころか、歴史修正者たちに都合のいい、靖国的な、死者たちの国家利用の、鎮魂(たましずめ)の媒体として機能してしまってはいませんか。