限界研blog

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藤田直哉『文學界』『すばる』に寄稿

限界研の藤田直哉が『文學界』『すばる』に寄稿しました。

文學界』2014年10月号 

文学界 2014年10月号 (文學界)

文学界 2014年10月号 (文學界)


「超虚構の果てに──筒井康隆論」藤田直哉

藤田直哉(@naoya_fujita)の最近のtweetまとめです。

「超虚構」とリアル/ネット。

この世界では絶対に実現しないこと、を夢見ることはあると思う。それは、「この世界では実現しない」という性質からして、反社会的(言い換えるなら、個人的な、通約できない欲望の産物)なものになる。ネットがリアルの延長になって、炎上などで平板化していって、消えてるのは、これだと思う。

そのような、この世では実現しない何かの夢が、ネットでは実現できるように思えた時代があった。政治や経済、人間関係などから自由な何かがあるように思えたときもあった。しかし、それは消えている。「拡張現実の時代」の居心地の悪さというのは、そこなんだと思う。

しかし、絶対に調停できない政治の中でうんざりしたり、日々稼ぐことに疲れたりしたり、SNSなどで人に気を使うことに疲れた人間が、ふと無意識的な欲望の中で求めてしまう「ヤバいもの」(私秘的な欲望)はあり続けるだろう。その受け皿が、ネットではなくなるというだけの話。

虚構と現実が一体と化した(かのように錯覚されがちな)世界では、「虚構」が「現実」に追放されることがありえる。現実が虚構に寄るよりは、虚構が現実に寄らされる。「虚構=現実」的な時代において、社会に通約できない欲望や想像の在り処を守るためのプロジェクトが「超虚構」だったのかもと思った

「超虚構」とは、虚構として書いたことが、現実に模倣されることで、現実に対して「疑似虚構感」すら覚えるような状況に対して提示された筒井康隆の概念である。その後、社会が悪を排除したりする傾向を批難し、文学の特権性を主張したのも、「現実化される虚構」の残余を守ろうとしたからなのかも

いわゆる、仮想現実と、現実が重ね合わさったと言われる「拡張現実の時代」の居心地の悪さとは、現実に虚構が乗っかってくることではなく、虚構が平板化されることそのものではないか。虚構までもが、社会や政治にコミットしなければならないという風潮そのものの居心地の悪さと言っても良い。

クールジャパンの居心地の悪さというのも、そういうことなのかもしれない。闇の欲動(?)に根差していた文化を、政治的な目的で利用としようとする際に失われる、暗部・闇・反社会的で不道徳で背徳的で暴力的でさえある欲動の部分。それが消えてしまうことへの危惧感というか。

文學界』に掲載していただいております「超虚構の果て――筒井康隆論」は、断筆解除以降の筒井康隆論です。断筆解除以降の作品と、それ以前との違い、そして、時代とどう戦い、超虚構理論とはどう関係しているのか……という内容です。『虚構内存在』に書けなかった部分なので合わせてお読み下されば


『すばる』2014年10月号

すばる2014年10月号

すばる2014年10月号

「前衛のゾンビたち 地域アートの諸問題」藤田直哉

藤田直哉Twitter上では、細かい質疑が行われています。一部を抜粋しました。

体験型とかプロセス型とか参加型の芸術を批評するような言語を作るのが批評家の仕事だろ、というのは、そうかもですね。批評とは、市場とは別の原理で質を測る方法の一つだとぼくは思っています。あったほうが、引っ掻き回されて、活性化したり淘汰したり進化が速まるような触媒みたいなものかと。

個別の作品の「可能性の中心」を見ていない、という批判もいただきました。それは、今回の評論の性質(様々な作品や動きの背景にある思想のようなものを、星座のように浮かび上がらせる)からして、犠牲にしてしまった側面ですので、申し訳ないと思います

地域アートの中にある個別の作品の「可能性の中心」があるのだとしたら、それを体験していない人にまでその価値(美)を伝え、説得させ、作品の価値を位置付けられるような言語を発明して、世の中に流通させるといいと思うのです。それはある意味で、個別の作品に惚れ込んだ人たちの責任ですね。

ぼくが今回の論考で行ったのは、その手前まででしかないです。まずは、その手前までしかできないという限界を指し示すことから、次の一手を考えていくことができるんじゃないか。あるいは、反論として「こんなすごい作品がある」という怒りから批評言語が発明されるのではないかという期待もあります。

2本の評論、ぜひご一読ください。