限界研blog

限界研の活動や記事を掲載します。

野尻抱介『南極点のピアピア動画』クロスレビュー【評者:海老原豊】

野尻抱介『南極点のピアピア動画』


ウェブ的「集合知」からSF的「集団理性」への橋渡し
ヴァーチュアル・アイドルが可能にする創造的コミュニケーション


評者:海老原豊


 ニコニコ動画と思しきピアピア動画、初音ミクをもとにした小隅レイ。作中に登場するこれらのガジェットは、作者が好きだと公言してやまない現実世界にあるサービスと基本的になんら変わらない。本書がSFだからといって、これらのサービスに何かSF的な要素が加わっているかといえばそういうこともなく、扱う手際はリアリズムのそれだ。もっとも巻末解説をかいたニコニコ動画代表取締役会長によれば、現実のニコニコ動画にはないシステムが作中のピアピア動画には実装されていて、ある種の(現実的な)「提言」になっているともいえる。いずれにせよ、ピアピア動画と小隅レイそのものにはSF性が皆無だ。では、いったいどこにあるのか。現実のサービスを前提にして「もし月に彗星が衝突したら」「もし真空に強い蜘蛛がいたら」という(ぎりぎりありえそうだが、それでも)現実にはない設定を導入。この「もし」を現実世界の法則で最大限に加速させた先に、気がつけば驚くべきSF的世界が広がっている。あたかもリアリズムとSFが地続きであるかのように演出されて。簡単な等式でまとめるならば、初音ミクニコニコ動画=星間文明。ただしこのイコールがくせもの。イコールにこそSF性が宿る。本レビューではこのイコールがSFである理由を示したい。
 本書は4つの連作短編からなる。「南極点のピアピア動画」では、月に衝突した彗星がもたらしたエネルギーを利用した宇宙飛行の計画・実行が描写される。「コンビニエンスなピアピア動画」は、あるコンビニで発見された真空耐性のある蜘蛛を用いた宇宙構造物が設計され、「歌う潜水艦とピアピア動画」では、ボーカロイド・小隅レイを使って鯨とコミュニケーションをする。その果てに発見した星間文明の使者がボーカロイドの姿を借りて日本中に増殖していく過程が「星間文明とピアピア動画」で描かれる。宇宙飛行や宇宙構造物あたりであればまだ現実味のある話だが、星間文明ともなるとさすがに非現実的で唐突に思われるかもしれない。が、野尻の物語ではこれらは一つ一つ階段になっていて、気がつけば星間文明にたどり着く仕様になっている。

 ピアピア動画(ニコニコ動画)と小隅レイ(初音ミク)はプラットフォーム(土台)。野尻が描き出すのは、このプラットフォームの上で人びとが織り成すコミュニケーションの様子だ。野尻は、このプラットフォーム上でどうやれば人びとが最大限の知的パフォーマンスを達成することができるか、その条件を探る。「ピアピア技術部」という、面白そうなことをただ「ウケ」をとるためだけにやる組織化されない集団が、その一つ。組織化はされないが、彼らがアップした動画にはタグ付けをされ、面白いと感じたユーザーによって「投げ銭」(金銭的インセンティブ)が与えられる。ピアピア動画のようなユーザー生成コンテンツ(UGC)の楽しみをテレビ世代の言葉で伝えることは難しいと作中で指摘されているが、明らかに「ピアピア技術部」の存在はポスト・テレビ的。製作者と視聴者が承認のループを形成し、より良いパフォーマンスを目指して向上していく。さらに人間ではなくボーカロイド/ヴァーチュアル・アイドルを担ぎ出し、「ピアピア技術部」などの計画に人びとの関心を集めるため、意図的に物語性が付与される。かつてであれば国家による大規模な予算が必要であった計画も、人びとの関心さえ集めれば何とかなるのだと問題は再設定される。「ピア技をまとめるには、金はいらない、そのかわりキャラとストーリーがなければだめだ」というように。

 物語性を付与するのに人間ではダメだ。なぜヴァーチュアル・アイドルを持ち出すのかという問いに、登場人物の一人は次のように答える。「人間じゃないものが人気ものになると、みんな幸せになる。ヴァーチュアル・アイドルを核にして、ひとつのユートピアができる」 生身の人間でだと、どうしても解釈の多様性を否定する要素が入り込む。例えば、アイドル・ファンの間で、自分の好きなアイドルが実際にはどのような人間なのかが議論されるとき、そこには到着点としての「一人の人間」が設定されるといった具合に。まるで宗教経典の解釈議論のように、唯一にして正統な解釈を信奉する排他性を帯びる。考えてみればアイドルとはそもそも宗教用語=偶像を意味する。神>偶像>信者のヒエラルキーは絶対だ。アイドルは神の意志を伝えるものであり、それ以上でも以下でもない。しかし、単なる依り代ではなく、作り手と受け手が一緒になって「遊べる」土台としてボーカロイド/ヴァーチュアル・アイドルを設定すれば、物語の制作者(神、アイドル)と解釈者(信者、ユーザー)の間に排他性ではなく多様性を基盤にした創造的なコミュニケーションが成立する。先の登場人物の言葉は、この創造的なコミュニケーションのことを指している。

 かつて柴野拓美は「SFとは個人の制御を離れて自走する『集団理性』の概念を内包する文学の一分野およびその周辺ジャンルの総称」と定義した。この「集団理性」という概念を一言で定義するのは難しいが(柴野自身も「作業仮説」であることをはっきりと認めている)、ここでは野尻抱介が現実世界のサービスをプラットフォームとして定義し、その上に築いた創造的なコミュニケーションの様態をイメージすればよいだろう。柴野の「集団理性」は今であれば「集合知」ともとらえかねないが、単純に集合知とイコールで結ぶことはためらう。というのも、ウェブ的集合知がある意味でベタに現実のものとなった現代では、集合知が上手くいくところと上手くいかないところがはっきりと見えてしまっているから。インターネットが登場したころであれば純粋に信じられていたような地球村集合知は、もはや過去のもの。現在の課題は、この集合知の「ムラ(上手くいくところ/いかないところ)」をいかに調節するかという、集合知を統御するシステム設計であり、それこそが柴野のいう「集団理性」ではないのか。これまで見てきたとおり、このシステム設計まで視野に入れて作品に結実させたのが野尻抱助の『南極点のピアピア動画』だ。初音ミクニコニコ動画をただ合わせるだけでは、星間文明にまでたどり着けない。両者をうまく調節する「集団理性」的なシステム設計が必要であり、「初音ミクニコニコ動画=星間文明」の等式を成立させるその手法にその鍵がある。

南極点のピアピア動画 (ハヤカワ文庫JA)

南極点のピアピア動画 (ハヤカワ文庫JA)

海老原豊(えびはらゆたか)
1982年東京生まれ。第2回日本SF評論賞優秀作を「グレッグ・イーガンとスパイラルダンスを」で受賞(「S-Fマガジン」2007年6月号掲載)。「週刊読書人」「S-Fマガジン」に書評、「ユリイカ」に評論を寄稿。