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デフレ化した世界の中で、輝くのは知性ではなく野生――斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら』【評者:海老原豊】

  • とりあげる本


斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店

  • ポイント


ここ20年の不況で、すっかりデフレ=モノの価値の低下が板についてしまった現在。「知的行為」もまたデフレの波をかぶるのであった。「長期的な視野にたって考える」ことではなく、その場をアゲアゲで乗りきっていく(しのいでいく?)ことが最適な生存戦略として選択されている。美学のとしてのヤンキーは、この生存戦略ポップ・アイコン。

  • 本論


斎藤環によるヤンキー論。…正確にいうならば「ヤンキー的なるもの」分析。斎藤自身は「美学としてのヤンキー」と呼んでいる。以下、いくつか面白かった要素を抽出していこう。


1 換喩的存在としてのヤンキー


換喩というのは対象の一部を連想させる比喩。隠喩というのは対象の本質へとつながる比喩。換喩的存在としてのヤンキーには、だから、本質はない。例えば音楽。ヤンキーにとって音楽はとにかく「アゲアゲ」かどうかが重要となる。極めて現実志向。音楽性といった本質ではなく、換喩的なスタイル(形式)が重視される。音楽のみならず、ファッションについてもおなじく換喩的。ヤンキーと聞いてまっさきに連想されるようなステロタイプ(リーゼント、改造学ランなど)は、ヤンキーのパロディであり、パロディであることをしりつつヤンキーたちはこれらの過剰な装飾がほどこされた様式を好む。本質(隠喩)よりも部分(換喩)であるヤンキーには、パロディの水準はあっても、それが対象とのメタな距離感をたもつ批評になることはなく、パロディはやがてベタにならされ、ただ過剰さのみが蓄積されていく。


2 ヤンキーの三大主義(反知性主義・感情に基づく投企的行動主義・家族主義)


ヤンキーは長期的視野にたった計画的・理知的な行動が嫌い(苦手)だ。斎藤は自身が考える何人かの代表的ヤンキー的存在(高橋歩ヤンキー先生、金八、ひきこもり「支援」)を例に出しながら、そうヤンキーの行動原理を説明する。ほかには、感情に基づく投企的行動主義=自分の直感にすぐに従うことと、家族や仲間といった横のつながりを重要視することをヤンキーの特徴としてあげている。面白いのは、例えば「ヤンキー」先生が「保守」政党の自民党に属している、という外面的矛盾。体制に反抗するのがヤンキーであるならば、なぜ彼は自民党の議員なのだろうか。しかし斎藤によればヤンキー先生の行動には矛盾がないとされる。どの共同体に属するかを「自由」に自分の魂にしたがって決めさえすれば、あとはその場のルールにそって行動していく。この非日常的なロマンティシズムと日常のプラグマティズムが奇妙に混交したものが、ヤンキー的リアリズムなのだ。


3 ヤンキーの女性性/母性原理


換喩的性格にしろ、反知性的な感情主義・家族主義にしろ、そこに共通しているのは女性性だと斎藤は喝破する。ヤンキー=恐い・マッチョな・アメリカへ憧れる・男性集団という理解では、あきらかにとらえきれない日本のヤンキー(美学)。精神分析的にいえば、男性原理とは法(秩序)である。これに対して精神分析は、女性性を積極的に定義する語彙をもたない。

「母親が娘に伝えようとする「女らしさ」は、観念よりも身体的な同一化によってしか伝えられない。これは「女らしさ」というものが、「男らしさ」とは異なり、常に人間関係の中でしか表現され得ないような、見かけ上の特性であるためだ。」(182)

かくして他者の欲望をひきつける「女らしい」身体がヤンキー文化圏で生成されていく。ヤンキーが換喩的存在であるのは、本質を伝達する男性原理的な構造をもっているのではなく、形式をどのように模倣すれば効率よく共同体内においてコミュニケーションをとれるのか(キャラをたてられるのか)に主眼をおいているからだ。


4 もっとも日本人らしい存在?


斎藤は日本文化の構造をハードで保守的な「深層」ときわめて流動的で変化しやすい「表層」の二重になっていることを、丸山眞男をひきつつ指摘した。これは日本文化がその都度、柔軟に海外からの文化をうけいれながら、日本的なものへと改変を加えてきた歴史に対応する。表層が文化的バリアとして機能するため、核となっている日本文化の深層構造はかたく守られる。外来語は一度、カタカナ変換され、あくまで「外来語」として日本語のなかへ統合される。ヤンキーが好むバッドテイストな和洋折衷もまた、この日本文化の二重構造を反映しているのだ。

  • ヤンキーの射程


ここまで、いくつか斎藤の指摘で面白いものをとりあげてみた。気になるのはこのヤンキー論の射程。ひとつは政治。この単行本の最後には橋下徹大阪市長のヤンキー性について簡単に触れられている。また、2012年の衆議院選挙後、安部内閣が組閣されたときに『朝日新聞』のインタビューに斎藤は答え、「安部晋三はヤンキー」といった趣旨の発言をしている。もちろん宰相の孫に具体的な非行経験があるわけないので、ヤンキーとは「美学としてのヤンキー」のことだ。関係性を重視する地元志向のヤンキーは、自民党の支持者になりえるし、ここ最近、学校教育の現場でヤンキー的美学の表れであるYOSAKOIが積極的に取り入れられていることも、ヤンキー的精神の形成に一役かっている、と斎藤は述べている。ということで、これからの政治、ますますヤンキー的精神の持ち主が台頭してくるのは間違いがないが、それはそれとして現状を受け止めつつ、その特徴である反知性主義とどう折り合いをつけていくのか、その方法を考えていくべきだろう。


もう一つは、ヤンキーを超えた日本(人)論として。表層‐深層の二重構造、女性性/母性原理といったものはヤンキーに限定されるものではない。それは斎藤が伊勢神宮や『古事記』といった、より歴史的なものへの言及もしていることからもわかる。また、キャラ(クター)とコミュニケーションに限定していけば、斎藤のほかの著書『キャラクター精神分析』(筑摩書房)とも接続されうる。


美学としてのヤンキーは生存戦略に最適化されている、と斎藤はいう。ヤンキー宰相にヤンキー市長が要請される背景には、日本が直面している危機があるのかもしれない。危機を、脱出することは、果たしてできるのかどうか。長期的な視座で未来を理知的に計算することが苦手なヤンキーにはわからない、らしい。