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ダンカン・ワッツ『偶然の科学』(早川書房)【評者:海老原豊】

友達の友達の友達の友達の友達の友達ってだれ

偶然の科学

偶然の科学

友達の友達の友達の友達の友達の友達(6人)まで手を伸ばせば、世界はひとつになる。



本書は、物理学と社会学の研究者にして、スモールワールド現象をネットワーク理論で説明したダンカン・ワッツの手によって「いかに常識がわたしたちを裏切るか」について書かれたもの。原題を直訳すれば「すべては自明である――ひとたび答えを知れば(いかに常識がわたしたちを裏切るか)」とでもなる。



本書には非常にキャッチーな事例が多数、収録されている。理論的な話もあるにはあるが、この手の事例を読むのが好きな人にはとにかくオススメ。モナ・リザが「名画」となったのは偶然の産物だし、VHSやiPodがヒットした理由もはっきりと断言できない。もちろん、それらを成功にいたらせたと思しき要素はいくつも指摘できるが、それらはいずれも「あとだしじゃんけん」のように必ず「勝つ(成功)」要素なのだ。モナ・リザが成功したモナ・リザ成分とでもよぶべき要素を抽出し、それを満たした作品を発見(創作)しても、けっしてモナ・リザ並みの傑作にはならない。「それがすぐれているのは、すぐれているからだ」という循環論法に陥りがちなのも、常識の結果。



友達の友達の友達……とメッセージを伝えていくと、どうしても「影響力のある人物(スーパー・スプレッター)」のような存在を仮定してしまう。これは、ピラミッドのようなモデルだ。てっぺんには影響力のつよいひとりの人物が立ち、メッセージはいちどトップまであがると、今度はトップから下っていく。そうやって考えがちだが、ワッツたちの研究結果によれば、ネットワークはそのように機能していない。ピラミッドではなくゴルフのようなものだ、と彼はいう。メッセージの内容や、誰に伝えるかといった個々の要素よりも、どのようなネットワークなのかという環境要因にこそ、そのメッセージが広く伝わる原因があるのだ。



これらはワッツによる常識批判なのだが、かといって常識はまったくいけないかというとそうではない。人間がなにげなくしている日常的動作(例、部屋を片付ける)が、人工知能搭載のロボットには不可能であるかとてつもない難題である、なんてことがある(フレーム問題)。人間が「適当に」対処できても、コンピューターには適当さの加減・調節が困難なのだ。常識が人間のパフォーマンスを向上させている例だ。ワッツは、スティーヴン・レヴィット&スティーヴン・ダブナー『ヤバい経済学』(東洋経済新報社)について批判している。『ヤバい経済学』の基本スタンスは、人間の行動は、たとえそれが一見不合理なものに見えたとしても、インセンティブ(動機付け)をていねいにおっていくことによって、必ず合理的な説明ができるというもの。ニューヨークの犯罪件数が劇的に減少した事例の説明として、「破れ窓理論」がしばしば適応される。いわく、窓が割られたままの車等を放置させておくと、大きな犯罪の温床となる、だから軽犯罪からきびしくとりしまるとよいのだ。レヴィットとダブナーは、しかし「破れ窓理論」をしりぞけ、中絶の合法化が犯罪件数の減少につながったのでは、と仮説をたてる。つまり、貧困家庭でバースコントロールがおこなわれるようになり、成長していれば犯罪者になる可能性があるだろう子供が、そもそも生まれなかったのだ、と。これには賛否両論が続く。



ともかくここで確認しておくべきなのは、ワッツは、レヴィットとダブナーのインセンティブによる合理化もまた、常識の裏切りの一例だと主張していることだ。事後的にインセンティブは発見されるし、発見もまた恣意的なものにならざるをえない。じじつ、事が起こる前であったらありえた様々な可能性は、事後にはすべて打ち棄てられる。これが自然科学の実験室での話であれば、くりかえし検証実験をおこなうこともできるだろうが、対象が社会(人間、歴史)となると、なかなかそれは難しい。というか、現実的に不可能だ。歴史という分かりやすい物語がもちだされ、カッコ付の「合理化」をたえずおこなっていく。だからレヴィット&ダブナーの仮説が、「破れ窓理論」ほど人気がないのも理解できる。「破れ窓理論」のほうが、私たちの常識的な間隔に近いからだ。



ヤバい経済学 [増補改訂版]

ヤバい経済学 [増補改訂版]

批評家が自らの言葉で言説を作っていこうとしたときに、どのような戦略をとれば最適なのかについて何がしかの助言をえられるかもしれない。あるいは、ある程度は予測できても完璧な予測などは不可能、最後には偶然が決める、という答えが返ってくるかもしれない。