限界研blog

限界研の活動や記事を掲載します。

須藤古都離『ゾンビがいた季節』書評

 須藤古都離もまた、潮谷験同様、柾木政宗と同じような立ち位置にいる。須藤も柾木のようにデビュー作の印象が読者の中に強く残っているせいか、作品ごとに作風を変えており、その変化は潮谷よりも自由奔放だ(潮谷は謎解きという軸足自体は動かさない分、須藤よりも制限が多い)。

 須藤古都離は〝ゴリラ〟と〝裁判〟という一般的には結び付かない単語を組み合わせ、変人弁護士によってゴリラの権利を主張する裁判を描いた『ゴリラ裁判の日』でデビューした。さらに2作目である『無限の月』はデビュー作『ゴリラ裁判の日』ともまた異なるタイプの物語だった。
 日本で暮らす男性がSF的なアイテムを用いて、中国で暮らす女性の過去を追体験することで、彼我の境界が曖昧になっていく冒頭から始まり、主に中国を舞台にしたサスペンスへと展開は移っていくのだが、物語の底には曖昧さの肯定があるように思えてならない。

 知能を持ったゴリラが現状を変えようと積極的に行動する『ゴリラ裁判』と、科学装置によってふたりの人物がそれまでの人生を共有することで、その相手の人生に(やや現実逃避的に)憧れていく『無限の月』では方向性が違うように思えるが、それでもヒトとゴリラ、彼と彼女、その境界線を無くそうとする/無くなっていくという共通点が存在している。さらに付け加えると、太極図のように白と黒とに分かれながらも、両者が混ざり合った部分を白や黒だと強制的にグループ分けするのではなく、そのまま曖昧な部分として許容する、そんな優しさが両作ともに垣間見えていた。
 そんな2作品に続く須藤の3作目は〝ゾンビ〟ものだった。

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潮谷験『名探偵再び』書評

 ……というような『食刻』と実に対照的なのが、『食刻』のひと月後に発売された潮谷験『名探偵再び』(講談社)である。

 柾木と同じくメフィスト賞の出身である潮谷はデビュー作である『スイッチ 悪意の実験』以降、特殊なシチュエーションや、虚構設定の奇病、SF的な設定の中に登場人物を放り込み、その状況でこそ輝く論理を用いた謎解きを得意としていた。その方向性を選んだ結果として、名探偵や館、密室などといった本格ミステリのガジェットとは一定の距離をおいていたように思える。

 それが『伯爵と三つの棺』で架空の歴史を描きつつ、古典本格への急接近を試みたかと思うと、最新作『名探偵再び』ではタイトルや表紙が示す通り偉大な名探偵をテーマに、本格ミステリの要素に満ち溢れた連作短編集を書き上げたのである。

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柾木政宗『食刻』書評

 一般的な読者が柾木政宗に対して抱くイメージは〝絶賛か激怒しかいらない〟と帯に書かれたデビュー作『NO推理、NO探偵?』(講談社ノベルス)によって確立された。

 推理を封じられた女子高生探偵が助手と共に推理力以外で事件に立ち向かうメタコメディな連作短編ミステリだが、ラストにおける前代未聞のメタフーダニットは読者に強烈な印象を与えた。この路線は、続編である『ネタバレ厳禁症候群』(講談社タイガ)に引き継がれており、また出版社を変え、ラブコメミステリである朝比奈うさぎシリーズも2作書かれている。

 しかし、すでにデビューから7年以上が経ち、最新作『食刻』(講談社)で8作目となるそのキャリアにおいて、コメディ路線の作品はその半分――4作品だけなのである。清涼院流水がそのキャリアの3分の1=10周年の時点で文SHOWを使わなくなったのに、20年が過ぎた現在でもいまだに文SHOWのイメージで語られることがあるのと同様、強烈な衝撃を与え過ぎた初期作は路線を変えても読者の印象に残り続けるという例だろう。

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限界研読書会――藤井義允『擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム』


文責:蔓葉信博


 藤井義允氏は2013年刊行の『ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF』から限界研の評論集に参加しており、執筆論考の批評対象は円城塔石原慎太郎という異色の対比で進められるものだった。

 以降、『ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評』(2015年)や、『プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近』(2017年)でアニメやゲームを対象にすることはあれど、主軸は純文学を対象として批評活動を続けている。
 そのひとつの集大成が本書『擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム』である。

 というわけで、今回は2024年に刊行された『擬人化する人間』の読書会(2025年1月実施)について、簡単にレポートする。

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